所感 from唐津匠

10月22日、芸術祭公演『スターマン』が無事終了しました。ご来場いただいたお客様ありがとうございました。毎度のことながら、仕込みやバラシ、機材手配などなど多くの方々にご協力頂きました。ありがとうございました。また、連絡先の調査に手間取ったりして上演許可を取るのが遅れてしまったのですが、「快く快諾」(と記載されていたらしい。これは狙ったジョークだと僕は信じる)くださった岩松了氏及び鈍牛舎の方々にこの場を借りてお礼申し上げます。

今回は一応、照明が基本ポジション。とはいえ、制作を中心に、各セクションのバックアップ的にちょこちょこと関わったりしてたんで、所感といわれると、なにから書こうか、みたいな感じになってしまいます。

『王の剣~』のときにちょっと書きましたが、松本演出で静かな芝居、というのは企画としてかなり前からあったんですね。この2年、エンタテイメント系の芝居が中心になっていたこともあり、そろそろ会話劇やりたいな、と。当初今年6月にやることになっていたんですが、諸事情により延期、今回の芸術祭での公演になったのでした。もちろん、面食らったお客様もそれなりにいたようですが、アンケート読んだり話を聞いたりする限り、好意的に受け止めて下さった方が多いみたいです。松本曰く「ファンを減らす覚悟で」挑んだらしい今回の公演ですが、結果としてみると減ったという感じはしないですねぇ・・・。ザマミロ。簡単に減らされてたまるか、と(笑

実は、ルアと僕が一緒にやるようになってから、松本が演出というのは今回が初めてなんですね。当初、自分がどういう動き方をするべきなのか、かなり迷いがありました。基本的に松本がやりたいようにやってくれればいいというのはあったんで、まったく口を出さずに見てるだけ、という感じでいるつもりだったんですが、稽古初日にいきなり衝突。
「各役者が、どんなことが出来てなにがしたいのかわからない。台本も明示されない部分が多いから、わからないところはわからないまま、手探りで進めていく中でベストなものを選択する」という松本に対して、「初心者も多く時間もない中で、最終形が見えない状態で稽古しても時間を無駄にする。どういうものを作っても構わないが、どういう方向で作るかの明示はしてくれ」と僕が強硬に反対。
結局この件に関してお互い納得せず、まあ演出は松本だから、ということで僕は見るに徹することにしました。

というと少し投げやりっぽいですが、もともと今回は「ただの照明さん」という立場を極力キープしてみたかったんですね。というのは、これまでの舞台は、演技はもちろん美術や音楽・照明など、基本的に僕の最終決定の下で作られていたという実情があって(まあ、演出ってのはそういうもんですが)、各団員に“最終的に僕がなんとかする”という甘え……というと少し違うんですが……難しいな。“自分はわからなくても僕がわかってればいい”というか。まあ、そんなようなものがあったんですよ。多分。なので、照明以外にはなるべく関わらないようにして、各セクション(というとスタッフ周りぽいけど、役者というのもひとつのセクション)が、自分たちの力で作るという体制を確立する必要があったんですね。

もちろん、各セクションで今なにが進行していてどんな問題があるのか、常にチェックはしてました。必要な時は手を貸し、マズイ方向に行きそうな時は指摘し、でも最終決定には関わらない。
例えば、大道具や小道具なんかの美術関係は、現場に入るまで最終形が作られないですが、現場に入ってからじゃ対応が効かないわけです。だから、未処理の空間が出来ていないか、構築の仕方に不備がないかを細かくチェックして「ここはどう処理するのか」「この量で本当に足りるのか」など確認する。でも最終形は担当者に任せ、最終形として出されたものをまたチェックする……ある意味、無責任に横からグダグダと口挟んでる感じなんですが、完全に手放して「試してみたけど失敗した」というんじゃ公演としてマズイですから。
演出ではないですが、制作や劇団主宰としての責任はあるんで、Under ControlからUnder Pressureへの移行を心がけつつ各セクションの制作にタッチしていました。

で、話が戻るんですが、演出に関しては、松本は演出経験も豊富ですから、当初の稽古方針以外は静観してたんですね。松本には松本のやり方や作りたいものがあるだろうから、口を挟むとやりにくいだろう、と思ってたので。

が、逆にこれがプレッシャーというか、監視されてる気分にさせてしまったらしいんですね。そういうつもりはなかったんだけどなあ。まあ、いずれにしても「黙って観られてるとかえってツライ」とのダメ出しをうけて、途中から演出助手的に動くことになりました。これについては後述。

 
作品・演出関係について

松本から渡されて、最初に『スターマン』を読んだときに僕が感じたのは、2004年に上演した拙筆『LIVING IN FEAR』に似てるな、ということでした。もちろん、舞台設定やストーリーは全然違うんですけど、少なくとも以下の点が同じなんですね。

・登場人物たちの本心はほとんど台詞にされず、見る側の想像に任される
・抵抗不可能な状況がある(スターマンでは思い出というかトラウマ、LIVING~では岩)
・正しい人も悪人もいないというか、各自の視点において皆正しい。
・皆正しいが、ほとんどそれが原因で諍いが起きる
・最終的にその抵抗不可能な状況に回帰して解決しない

これ、つまるところ普段の日常だと思うんですね、特殊な状況ではなく。僕はかねてから『LIVING~』は日常劇というか日常を別な形で表現した物だと言い張ってきたんですが、日常のまま表現したのが『スターマン』なんじゃないかと。この“自身の努力では解決しえない抵抗不可能な状況”というのを、自分自身につきまとうプレッシャー(たとえば人間関係だったり仕事がらみだったり)に置き換えるとわかりやすいのではないかと思います。それを極めてパーソナルな視点から描いている。少なくとも僕はそう読みました。

で、まあ表現なんかも含めて考えると、「意外にわかりやすいコメディ」だと思ったんです。本筋は暗い話なんですけど、すくなくとも表層上はコメディだな、と。意識のズレやなんかから起こる諸々の出来事は、コミカルな間(マ)としての「・・・」に収束していくパターンが多い。その上で、シリアスな空気がある。だから、上演するならその、間の起伏をどこまで出せるか、というのがひとつの焦点になる芝居だと思います。

ただ、この意識のズレというのは、演じ方によって空気が大きく変わるんですね。「理解が得られないことによる苛立ちや不快感、物哀しさ」といった重い空気から、「意図が通じない滑稽さ」というコミカルな空気まで、どうにでも作れてしまう。作品全体を、見ている人の胃が痛くなるようなシリアスな芝居にも、どたばたコメディにもしてしまえる芝居なんです。僕が当初演出家が指針を与えないことに反対したのはこれが理由。逆に松本は、指針を与えることで可能性を限定してしまうのを嫌ったんだと思います。

松本の考え方もわからなくもないんですが、やっぱり指針なしでこの芝居作るのは難しいと思う。まあ、初心者の役者が多かったっていうのもありますが、たとえばひとつの収束の仕方を、笑いにするのか重い空気にするのかは、そこに至るまでの演技でほぼ決まってしまう。で、もちろんその演技というのは一人でやってるわけじゃないんで、そのシーンに関わっている人(スタッフも含む)全員のコンセンサスが取れてないと、その空気が完成しえないんですよ。スタンドプレイのギャグやヒロイックな長台詞みたいなもので構成されてれば別なんでしょうけれど、あくまでも関係性によって空気感が作られる芝居ですからね。例えば1場(最初の暗転まで)なんかは「身勝手で奔放な岸川/振り回される妹」なのか「傍若無人な振る舞いをする感情的な妹/困惑する岸川」なのか、どちらが正解ということなく、どちらでも作れるし、それによって得られる空気感が変わる。また、グロスで考えるとそれまでなんだけど、実際には秒単位でその関係性が推移していく。これがこの芝居の最も特徴的で面白いところだと思う。

どちらが自分の主張を通すか、議論の内容はどうでもよくなってただのプライド勝負になってる、つまらない(が端で見てると笑える)社内ミーティングに似ている……かもしれない。

で、ようやく話が戻るんですが、僕が演出助手的な動きをとるようになってしたことは、松本の言葉を噛み砕いて、目指す空気感を指示することでした。特に1ヶ月前の通し稽古が終わってからは色々と弄らせてもらいました。このページ冒頭でも触れましたが、この芝居を面白くするには間の起伏をどれだけ出せるかがポイントだと思います。まあ、間だけじゃなく台詞なんかもそうですけども。当初、本質的には暗い話ということもあって、とかく怒りや嘆きといった部分を強調することで起伏を出そうとしてたんですね。でもその部分だけを強調しても、起伏としてはイマイチ弱くて単調に感じるというのが通しで露呈。これについては、僕と松本の見解は一致しました。わかりやすく数字でたとえると、0から頑張って+5くらいまで上げて、+6になるように0.1単位で頑張ったところで、起伏としては6段階しかない。だから、僕がやったことのほとんどは、ポップさや滑稽さの追加でした。強調したい怒りや嘆きとは反対のベクトルを付けたんですね。-3とか-5とか、逆方向の数値をコントロールすることで、起伏を激しくする。まあ、演出方法としてはスタンダードな解決方法でしょう。

といっても、台本は一行も弄ってないです。台本弄って飛び道具的なネタを入れるのは簡単ですからね。そこに逃げるのだけはやっちゃいかんだろと。

岩松了さんの芝居は、見る側にけっこう想像力を要求すると思うんです。字幕で解説が入るTVバラエティに慣れた人には、正直受け入れにくいところがある。といって、それらの人にも伝わるような説明的な演出をすると、芝居そのものが面白くなくなるというトレードオフがあって、そのバランスが難しいように思います。

とはいえ、好みの問題に左右されるというのが多分にあって、例えば、間(マ)ひとつとっても、感想は「間がおもしろい」「間が長すぎる」「間はもっととっていい」と分かれてるんですね。なので、“これが正しい”というのを作り手側が変に意識してしまっても仕方がないというか、最大公約数的につくっても意味がない。芝居ってのはそもそもそういうものなのかもしれませんけど、ベースがシンプルなだけに、この作品は特にそういう傾向が強い気がします。

だからもう、正しいとかってのはおいといて、作り手が面白いとおもうやり方を、確信持ってやりきるしかない。そんなわけで、松本にこのシーンはどういう空気で見せたいのか確認しながら、滑稽なところは滑稽に、すれ違いはその幅を大きく、といってどたばたコメディにしても意味ないので、シリアスに残したいところはそこにうまくつながるように弄る。といった作業をみんなで進めました。最後の1ヶ月で芝居はがらっと雰囲気を変えてます。僕が演出だったらもう少し全体の空気をポップに寄せたんじゃないかと思いますが、その辺は松本の好みに載せてかないと壊れちゃいますからね。

結果的には、結構いいもの出来たんじゃないかなあ、と思ってます。まあ煮詰めが甘い部分や、もうちょっとうまく流したい部分なんかも多少残ってたんですが、少なくとも、想像力働かせてディテイルを追うのが好きな人には、面白いと言って頂ける作品になっていたらしいのがアンケート等から見て取れたんで、まあよかったのではないかと。「難解」「わけわからん」といった感想もあることはあるんですが、言葉にしているものよりも、言葉にしていないものの方が多いくらいの芝居ですから、そういうスタイルが好きでない人に無理に理解を求めても仕方ないと思うんですね。もともと岩松さんが演出した本公演も、全体的にいい評価を受けてる反面、「意味不明」といった批判も多いようなので、まあ、そういう芝居なんだろうと。

いい悪いの問題じゃなく、そこは好みの話だと思うんですよ。そういう意味では、ちゃんと好みの話で語れるレベルまでは作り上げることが出来たと思います。これ(好みの問題というところまで作ること)は、アマ劇団にとっては重要だと思うんです。結構大変な作業ですからね。

 

照明について

ある意味いつもどおりの明かりかなあ、と。煙は炊いてないですけどね。

明かりを作ったことがある方はご存知だと思いますが、三方を白い壁に囲まれる、というのは照明条件としてはかなり厳しいです。人を明るくしようとすると、人より先に壁が明るくなってしまうんですね、どうしても。演目によっては壁に積極的に明かりを当ててくことも可能だと思うんですが、今回日常劇なんで、あからさまにやってしまうのもちょっと…。ということで、某・超有名照明家S御大がTPTなんかでよくやっていた手法を踏んだ感じで作りました。

こういった芝居で難しいのは、日常劇の日常性(というかリアルさ)と、非日常のバランス。室内でただ蛍光灯がついています、な明かりから、必要なものを強調するという演劇的デフォルメを入れた明かりに変えた瞬間に、日常性が破壊されてしまうんですね。

一番簡単な解決方法は、ひたすら蛍光灯的な地明かり点きっぱなしで乗り切るという方法。これだと仕込みも楽ですしね。なによりも、文句言われることが少ないです。だって役者は常に明るく見えるし、日常性を壊す心配ありませんから。ただ、非常に退屈ですけれど、そういう場合の苦情はたいてい照明さんじゃなくて演出や役者に行くというメリットはあります(笑

松本から、最初は夕景にしたいとか最後は星明かりな感じとか、僕の嫌いな赤を点けたい(笑)とか色々と注文があったんで、この「ただの地明かり」方式は却下。まあ、松本のオーダーがどうだったにせよ、うちの劇団としてそういう、ある意味楽な方向に逃げた作り方のはどうなのよ、とも思うんですねやはり。

で、色々話し合った結果、日常劇感を損なわない形でそのオーダーを実現させるために、台本には書かれていない「部屋の明かりの点け消し」という要素を追加することになりました。是非の問われるとこだとは思いますけども。

といって、これだけだと「あからさま感」がすごくあるんですよ。こういう時の解決方法というのは色々あると思うんですが、今回は、日常の明かりを最初からある程度デフォルメ気味につくっておく、という方法をとっています。ここはもう、バランス勝負ですね。どこまでデフォルメするかという。台本上、ブラインドの入った窓とかが出てくるのでそれを活用しつつ、ドアからの光や壁のタッチなんかを使ってわりとランダムに構成しました。

2場とかね、オペレータとの打ち合わせ不足というか、意図を伝えきれてなかったのでちょっと煮詰め方が足りない感じもあったんですが、仕込みやバラシにかかる時間考えて、グリッド(クリエイトの吊り物バトン)間の機材移動殆どなしを前提に書いた仕込みのわりには、それなりにまとまったのではないかと思います。

別の話として、今回映像の撮影があったんですが、撮影しにくそうだなー、と。1ステ目の映像をちょっと見せてもらったんですが、色がうまく取れないみたいなのねやっぱ。僕はけっこうゲージで色味が変わる色(というかフィルタ)が好きで、明かり作るときはゲージ切ったり、つけるスポット変えたりで“お客さん的に今はこの明かりがホワイトに見えるはず”みたいな考え方のもとで作るんですよ。つまり、実際には色が入ってないスポットをオレンジとして使ったり、逆にわりと濃い目のブルー入れてるスポットを白に見せたりするんですね。でもそういった“心象的に白い”色ってのは、カメラには通用しないというか、そのまま色として乗ってしまう。

昔から舞台では照明さんと撮影部隊ってのは仲悪い組み合わせだったりするんですが^^;、最近記録映像ちゃんとしないとなー、と考えてる身としては、もうちょっと撮影のこと考えた明かり作ってみてもいいのかも、とも思います。まあ、会場で生で見てるお客様にイマイチな思いさせないようにしなくちゃいけないので、限度はあるんでしょうけどね。難しいとこです。