所感 from唐津匠

『DUAL』を終えて

公演について

遅くなりましたが、第9回公演『DUAL』にご来場いただきありがとうございました。また、今回も劇団からっかぜさんや浜松キッドさんはじめ、多くの方々にご協力いただきながらの公演となりました。この場を借りて御礼申し上げます。

うちはしばらく前から企画部や制作が中心になって公演企画を立てていくことになっているんですが、今回は特にその傾向が強い公演になったような気がします。1年半かけた三部作からどう動くのか、と議論を重ねていく中で、『DUAL』の形が徐々に決まっていきました。最近うちを知ったお客様方は、三部作以外のカラーを知らない、というのがひとつの課題としてあって、また別の問題として、今後に向けた集客力アップのためには、今までとは別の層へのアピールが必要だろうと。そんな話の流れで、今までと別のテイストの芝居をやる、ということが漠然と議論されていました。

別のテイストはいいんだけど、そもそものうちのテイストってなんなんだと。それがわかんないと別もへったくれもねーよ、と僕ゴネてみたりして。

で、カラクリの特徴ってなんだ?とモラトリアムに陥ったりしつつ、迫力だのスピードだのパワー感だの世界観だの、と挙げられる中で、じゃあ挙げられた特徴を使わないような公演をしたいのか、と問えば、答えはNo。

まあ、そりゃそうですよ。カラクリの特徴と言われるものに、劇団員それぞれが愛着を持っていたり気に入っていたりするわけですから。で、僕自身はうちの芝居の一番の特徴って、ひとつの芝居の中でいろんな芝居のスタイルや方法論を組み込みながら、それを瞬時に変化させる振り幅の大きさにあるように思うんです。新劇的なシーンをやっていたかと思えば急にボードヴィル的な身体表現になってみたり、超シリアスなことやってたかと思えば一言で下らないナンセンスに切り替えたり、その変化の落差や速度で見せようとする。まあ別にウチ独特ではなくって、80年代小劇場的特徴なんでしょうけどね。

なので、僕にとっては「カラクリっぽくない」芝居というと、ひとつのメソッドに沿って作った芝居か、あるいは、これまで面白いと思えなくて採用しなかった方法論で作った芝居、のどちらかになってしまう気がする。で、それ、楽しいのか?っていう。

そんなこんなで、別のテイスト云々という議論は、結局僕らカラクリの芝居好きなんだよな、っていうか、カラクリはカラクリらしいのがカラクリなんであって、カラクリらしくないカラクリやってもそれカラクリじゃなくて別の劇団見に行けばいいじゃんってことにしかならないという、非常に当たり前の結論が出てしまったのです。と、カラクリを連呼してみました。

ぶっちゃけ、ウチが例えば『世界の中心で愛を叫ぶ』やったって、誰も喜んでくれないんですよきっと。

あ、今の自分たちに満足してるとかってことじゃないですよ。ウチはさっき言った通り、いろんな方法論を放り込んで芝居作るので、用いられる様々なものをより磨き上げていこうという方向で活動してます。なので常に現状について力不足を感じてます。だからこそ、たとえばウチが古典演劇でもやって、今までと別なことやってますー、みたいになんとなく表面上でやるんじゃなく、今のままより精査していくことで、やれる幅を広げていこうとしている、という意味で捉えてもらえればと思います。

と、話が大幅に横道にそれましたが、そんな議論の末、じゃあどうやって新味を出すんだって部分で、中途半端に他人の戯曲やるより、演劇じゃない作品をベースにしようってことで、小説を原作に据えるってことになったんだと記憶してます。

まあ、そうすれば少なくとも、僕の作った世界観の芝居ってことにはならんだろう、という意味もあったんですけども。

企画してるときにはたいして気にしてなかったんですが、二本かけあわせの二本立て、というのは今思えばけっこう強引な企画ですね。というか、それが成り立つような原案がよくあつまったなあ、と。作家的に見ても、近代作家(志賀直哉)、海外作家(ミルハウザー)、現代人気作家(伊坂幸太郎)、劇団員(松本)と、まあ、バラバラなワケです。個人的には、有名な大作家と同じ並びで松本の名前があるのが非常に素敵に感じます。うちらしいというか。

企画が決まった段階で、今回の公演、今までとテイストが違うというより、今までのテイストをふたつに分離させた感じになるんだろうな、と予想してました。出来上がったものみて、やっぱりそうなりましたね。ふたつの作品のテイストは違うんですけど、両作品とも明らかに絡繰機械’sの芝居ですもん。たとえば『ナイフ投げ師の犯罪』だけを上演したとしたら「今回はいつもと違った作品だったね」とは言われないと思うんです。逆に『通行のルール』だけをやってもやっぱり「いつも通りの作品」と言われるんだと思います。

でもふたつの作品は違う。そのどちらのテイストも、あるいはどちらでもない新たな味を、ひとつの作品の中で展開しているのがウチの芝居。だから、ある意味なにをやってもいつも通りのカラクリ作品に見えていく……という、公演前のモラトリアム化した議論が、公演をやったことによって明確になったような気がします。

作品について

作品について語るのはあんまり好きじゃないんですが、今回二本の原案の掛け合わせということで、それぞれの作品をどう読んで戯曲化したか、というような切り口から、若干語ってみたいと思います。

まず、1作目の『ナイフ投げ師の犯罪』から。

原案は志賀直哉の『范の犯罪』と、ミルハウザー『ナイフ投げ師』。裁判のかたちで描かれているのが『范の犯罪』。これをベースに、事件当時の回想として『ナイフ投げ師』を組み込むような感じで構成しました。

『ナイフ投げ師』はミルハウザーの特徴がよく出てる短編だと思います。まあ、ぶっちゃけ僕はミルハウザーのファンでもあるので、作品全体の雰囲気はこっちに寄りましたね、多分。観客の立場で描かれるこの物語は、ヘンシュの芸に、いけないと思いながらもつい期待してしまう心理、しかしその期待がインチキによって裏切られてしまう様が描かれます。

ミルハウザーはこんな感じの、生活を芸術(というか、広い意味での美、だと思いますが)が凌駕してしまう、とか、その逆で、芸術が生活(や商業的行為)に屈服してしまう、といったものをモチーフにしてます。カフカの『断食芸人』なんかにも近いかもしれません。わかりやすく、理想と現実、と捉えてもいいのかな。どっちが理想でどっちが現実なのかは考え方次第ですが。

『范の犯罪』は事件(ナイフ投げ師が人を殺した)について、故意だったのか事故だったのか、その法的解釈を中心に描かれている……わけじゃないと思います。裁判のテイをとってたりするのは、語り進めるための入れ物であって、中身じゃあない。なので、裁判や法というシステム上の云々とかって話じゃないんですよね。といって、もちろん、夫婦の関係がどうこうでついには殺意を……って物語でもない。

じゃあなにが書いてあるのかっていうと、意思と行為との距離感というか接点というか。人間はその行為をどこまで意思によってコントロールしていて、どこからはコントロールできなくて、じゃあその違いというか、それを分け隔てているものはなんなのか、という、ある種フロイト的人間分析の話なんだと思います。少なくとも僕はそう読みました。

そんなふたつの作品の掛け合わせです。

ちなみに、『范の犯罪』では、裁判長はこの一件を無罪として物語が終わります。ラストについては色々検討したんですが、普通にどっちかの判決出しても面白くないし、といって、「判決を行う!」(と、言葉とともに暗転)みたいに終わらせるのも、ありがちすぎてつまんない。で、悩んだ末、あの形になりました。あれ、「実はそーだったんだよなーんちゃって」というテキトーなラストじゃあないです。むしろ超真面目。まあ、さんざん引っ張っといてそれかよ!っつって笑ってくれてもいいんですけどね。

あのラストを思いついたときに、出演者とかに「これこれこんな意図でこんな感じで終わりたいけどどうだろう」と説明しまして。おそらくお客さんの8割くらいは、ぽかーん、な感じだろうし、そうでない方も大半はテキトーなおふざけだと思って思考停止してしまうだろうけど、でも実は奥深い意味があるし、おそらくこれ以上のラストはないと思う、って。んで、まあいいんじゃないって理解が得られたので、採用させてもらいました。なので、お客さんの反応は想定内でした。

見た人に「あの最後ってどういう意味だったの?」とよく聞かれるけど「ヘンシュって結局無罪だったの?有罪だったの?」とはほとんど聞かれない、と言ってた役者がいるんですが、そういう意味ではいい終わり方だったのかなと思ってます。先にも書いたとおり、有罪か無罪かは物語のメインではないので。

具体的な意味は書きませんので、まあ、先に書いた原作の捉え方なんかから、考えてみていただければと。

次、『通行のルール』について。

企画上、ハード系とソフト系という指定を受けてまして、まあ、ハードとソフトというより、ヘヴィとライトなんだろうな、と思いながら、もう1本の選定をしていきました。『ナイフ投げ師の犯罪』が一般認知度があんまり高くない作品を扱ってるので、もう一本は現在流行の作家でどうだって話になりまして、恩田陸さんとか色々挙げられた中、伊坂幸太郎氏の『終末のフール』に決まりました。

というのは、パンフだったかにも書いたんですが、もう一作の松本の『ガードマンのお仕事』は、ふたりのガードマンは、実は世界が終わってて誰もいないのに、ふたりでずっと交通誘導をやってる、というのが元々のプランとしてあったらしいんですね。最終稿ではそうならなかったんですが、『終末のフール』を組み込むことで、そんなテイストも出していけるだろうと。

で、『終末のフール』の中から、松本とディスカッションしたりしながら、表題作を使うことが決まる。喧嘩別れしていた親子が終末をひとつのきっかけとして再会するという物語なんですが、原作では父親が完全に悪者として描かれてるんですね。でも個人的に、康子には康子の苦悩やドラマがあるはずだろうと思いまして。で、まあその辺を描こうとするとどうしても暗さというか、企画上のソフト/ライトといったニュアンスとは別の色が出てきちゃうんですが、まあ全体の口当たりとしてライトテイストになってればいいやって割り切りました。

というか、軽めな芝居を作ろうと思っても、やっぱりそういう、暗さというか重さというか、そういうもの入れたくなっちゃうんですよ。逆に『ナイフ投げ師の犯罪』では、下らないギャグとか入れたくなっちゃう。変化の少ないひとつだけの空気や思想で作るのが、僕あんまり好きじゃないんでしょう、多分。

松本の『ガードマンのお仕事』に、なんだかやたらと熱い旗ふりのシーンがありまして、僕それを非常に気に入ってしまったんですね。本職の旗ふりやっていて、なおかつ、つかこうへい好きの松本にしかかけないだろう台詞群。これは世に出してしかるべきものだろうと。なので、作品全体の空気感は、そこを基準点に作ってます。そこに『終末のフール』から予想されうる康子なりの苦悩を入れたって感じなので、わりと僕自身は、執筆したというより編集したという感覚が強いですね。

ふたつの作品を融合させて新しい作品にする、という感じが強い『ナイフ投げ師の犯罪』に対して、こちらの『通行のルール』に関しては、どちらかというと原案を活かして、例えばあとで『終末のフール』を読む人が、より面白く読めるようになったらいいな、みたいな感じを目指しました。なので、興味がわいた方はぜひ原案読んでいただければ幸いです。

役者について

相変わらずキャスティングがばたばたしたこともあって、色々と厳しい状況だったのですが、客演さん含め各役者ともがんばってくれたと思います。

うちの役者についてざっくり触れておくと、わりと「新しい側面を~」みたいな感想が多いように感じたんですが、多分実際にはそんなことないんだと思ってます。

うちの演技の基本的な方法論として、「この人はこれこれこういう人だからこんなふうにしゃべったりする」という、いわゆる新劇的(というより高校演劇的なんだと思うんだけど)な記号化をあんまりやらせないようにしてるんですね。人間ってもっと多面性のある生き物だと思うんで、接する相手やシチュエーション、その時の気分によって、全然違う側面を多用しながら生きてるだろうと。そっちの方を重視してます。

なので、お客さんにとっては、例えば伊藤あたりが女性的な役柄を演じてるってのは新味があるんだと思うんですが、実は女性的な側面を見せるシーンってのはこれまでもやらせてたりするんです。どちらかというと、今回はその「ある種の側面だけに限定」した役柄でやらせていた、と。だから、どの役者についても、ある程度は出来るだろうと踏んでいたし、やっぱりある程度は出来た、ということなんだと思います。

どの程度できたのか、という部分で、もちろんもっと精査する必要はあるんですが、だからといって、この(人間を記号化して、少ない側面だけで見せようとする)手法は、正直あんまり好きじゃなかったりします。まあそうすることで、よりわかりやすくなりますし、バランスの問題だとは思うんですけどね。

なので、うちのレギュラー陣に関して言うと、ある程度出来るようになってきた役者たちを、これからどうのばしていけるのか、この先は僕のビジョンと指導力の問題なのかな、と。そういうプレッシャーを感じますね。

あとは、新人の育成。レギュラー陣がほぼ未経験の状態で入ってきて、5年で今の状態にあるわけですが、僕自身どうしても「まだ新人」のつもりで捉えてしまっていて、そのせいで、完全な新人が入ってきても、同じくらいのものを要求してしまう。まあ、昔から新人には無茶な要求をしながら育ててきたので、ある意味昔から同じなのかもしれません。が、もう少し甘めに見てあげた方がいいのかな、と思ったりもします。長い目で見て育ててくってのはやっぱり劇団という体制を取ってるがゆえにできることなので、その辺を踏まえつつ、新人たちを鍛えていきたいです。

個別にざらっと。『ナイフ投げ師の犯罪』チーム。

全体的に見て、こっちはわりと段取り芝居というか、演出家が全体の構造を作ってしまう芝居なので、役者としては、その中の必要なことを抑えつつ、どれだけ独自の味付けをしていくことが出来るか、というのが問われるんだろうと思います。なので、転換なんかの全体の動きについては僕が指示してますが、個別の演技については、(特にうちのレギュラー陣に関しては)若干軌道修正する以外は極力自由にやってもらうようにしてました。

マルグリット役&ヘンシュの妻ローラ役の伊藤。なんといっても、舞台上で照れずに歌えるようになったこと、かな。これはなにげに大きい。5年前の『スターマン』の時はひどかったですからね。登場人物と自分自身の切り分けってのは、長い課題として持っていたことなので、まあようやく一歩かな、と。課題としては、まだやっぱり癖が出がちなので、細かく意識して体を使えるようになって欲しいですね。

ヤン役の森。森はウチに入る前は「いい人そうなお兄さん」みたいな役ばっかりやってたんですが、ウチに入ってオバカ系の役ばかりやってる気がする。馬鹿なことやってても持ち前の真面目さやいい人感が出るので、それが役柄の奥行きになったりもするんですが、今回はもう少し、そのいい人感を消して欲しかったかな。ある程度の経験があるので、他の人に時間をかけてしまって森自身にはなかなかダメ出しを出来ないというか、後回しにしてしまうことが多く、申し訳ない。

ソーニャ役のたばる。前作のジーンでついたイメージ払拭というのが彼女の課題でしたが、それについては大丈夫そうかな。ただ実は、こういった役は『鳴砂スパイラル』の精霊役でもやっていて、僕自身はそれと比較しながら見てました。無駄なことの入れ方が徐々にうまくなってきてる気がします。課題は即興性かな。事前に用意したものを見せるのは慣れてきたと思うので、あとは稽古の時、臆せずに演じてみる度胸というか。伊藤の羞恥心みたいなのとはまた違うんですが。

エマ役の成瀬。彼女はまあ、新人ってこともあって、台詞の読み方や動きの取り方について、かなり具体的に指示してました。善し悪しを語るような段階ではないと思うので、とりあえず当面は、舞台に立てるだけの基礎技術を身につけるのが一番の課題。それがないと表現したいものがあっても表現しようがないからね。あと、台詞がないときの演技とか、群像化したときの演技とかが若干おそろかになるので、その辺意識させる必要があるかな。

あと、マルコ役の山口さん、裁判長&トーマス役の仮谷さんのおふたりは、演劇集団浜松キッドさんからの客演でした。また、ヘンシュ役の大館さんは狐野さんがつれてきてくださいまして、芝居に出るのはかなり久しぶりということ。色々と過酷な状況の中、皆さん真剣に取り組んでくださいました。この場を借りて感謝します。

『通行のルール』チーム。

こっちはわりと段取りなく、役者が自由に動いてるように見せる芝居。「ように見せる」ってのがキモ。というのは、舞台奥に行きたい通行人と、行かせたくないふたりのガードマン、という構造上、自然にやろうとすると通行人はどうしても舞台奥を向いてしゃべることになる。しかし物語の焦点は通行人の語る話にあるので、それではもちろん成立しない。ということで、なるべく不自然なく顔が客席から見えるように、実際にはかなり細かく段取ってます。それを、いかに好きに暴れてるように見せるか、というのが問われる。

高橋役の松本。松本のキャラクターあっての芝居っていう部分が強いので、あんまりダメ出しするようなこともないんですが。強いて言うなら、冷静さかな。どんなにカッとなっても、段取りは冷静にこなしていかなければいけないですし、声をつぶしてしまわないようにコントロールしなくちゃならないので、その辺の器用さが身に付くとホントはいいんでしょうね。あんまりそれやっても持ち味が死んでしまいそうで怖いですが。

康子役の中西。今回は、普通の役というか、普通の人風の役ってことで、ガードマンたちの引き立て役をまっとうするのが課題でした。ちょっと目立ちすぎな感じもあったけど、ストーリー上台詞の少ない康子に焦点を当てなくちゃいけないので、その辺のバランスをうまくとってくれたんじゃないかと。立ち居振る舞いが若干小綺麗すぎだったのかもしれません。もっと雑な方が普通っぽいけど、そうすると芝居としては緩い感じになっちゃうので難しいとこですけどね。

ほか、須藤役の狐野さん、変な通行人に前出のキッド仮屋さんが客演。狐野さんは普段とは全然違う芝居作りに戸惑っていたようですが、僕の失礼な物言いにもめげず、がんばってくれました。仮屋さんも諸事情で本番2週間前くらいにあの役をやることになったんですが、どうにかしてくれました。お二人に感謝。また、康子の母親として一瞬たばるが出たりもしてます。ほとんど稽古できなかったのに、ありがとう。

スタッフワーク関連

脚本。今回もっと早く書くつもりだったんですが、キャスティングのばたつきだったり僕が個人的に忙しかったりで、結局本番2週間前くらいの仕上がりになってしまいました。2週間前で「おお、今回早めに上がった」とか言われてるようじゃダメですね。もっとがんばらねば。元々どちらも45分程度にまとめるつもりだったんですが、『ナイフ投げ師の犯罪』が1時間くらいになってしまった。せめて50分でなんとかできるだけの技術を身につけるべきだろうと思ったりもします。

企画が決まった段階で、ある程度ウケるものになるだろうという予測はしてました。どっちの芝居も問題の焦点が二元化していてわかりやすいですからね。なんというか、こういう、焦点を絞ってそれについての思考を巡らす書き方というのは、どちらかというと僕としては書きやすいんですね。小説書いてたころは基本そんな感じでしたし、カラクリ以前の初期作品(ムナポケ伊豫太君の一人芝居とか、『I-N-CHI-KI』とか)はその手法で書かれてて、その書き方にはある程度めどがついたというか、それなりの形には出来る気がしていて、それに甘えたくない自分がいる。で、今みたいな書き方を模索してる、というのが実情なんですね。なので、今回のが面白いといわれてしまうことに、若干の寂しさを覚える自分がいたりもします。両作品とも、その「二元化されたもの」とは別なところで終わらせてるのが、せめてもの抵抗なのかな。あんまり意識してなかったけど。

まあ、俺はこういうのはいつだって書けるんだ、とか嘯いたとこでナニイッテンダ素人がって感じなので、そんな負け犬の遠吠えみたいなことしてないで、今模索してるやり方をもっと精査して、ちゃんと形にしなくちゃいけません。他の劇団員たちの足を引っ張ってしまわないように、精進あるのみです。

演出。演出についてはここまでの文章でちょいちょい触れているので、書き漏らしたことをちょっとだけ。というのは、ナイフ投げ師のほうの、最後あたりでヘンシュが妻にナイフを投げるシーン。あれ、まあ面白いですし、実際お客さん方の反応もいいんですが、実は芝居の内容を考えたときに、没にした別案の方がよかったかな、という後悔がちょっとあるんです。じゃあ、なんでそっち没にしたんだっていうと、一般的な受け入れやすさを優先したという、ある意味ヒヨッたわけです。その辺の度胸のなさが僕の悪いとこ。いや、まあ、結果的に見てどっちの方が評価されたかっていうと、やっぱり今回選んだ方だと思うんですけども。

美術。と、大道具&小道具。美術については、途中で転換が入るのであんまり物量は仕込めないってのがありまして、その中で出来ることを伊藤とふたりで模索していきました。結果出来上がったものについては、非常によかったと思うんですが、その経過がね。これについては伊藤側の反省もあると思うんですが、どっちかというとね、僕のオーダーの仕方があんまりよくなかったような気がしてます。ほぼノープランで大雑把に伝えて、それを伊藤が具体化してきて、それみて「これだとこういう要素が」「このニュアンス死んでない?」とか好き勝手言ってる感じなんですよ、僕。ほぼこれで行こうかって決まったはずなのに、直前で「やっぱりここは……」とか言ってみたり。クライアントとして非常によろしくない。なので、我慢強く最後まで僕のわがままにつきあって、結果ちゃんとした形にした伊藤を讃えつつ、自分のダメさを反省してます。

と、まあそれはさておき、短編2作という上演条件だけ考えると、もっと簡素なセットを想像しがちだと思うんですが、両作品の世界観をちゃんと創出しつつ、転換に10分もかからないあの美術は秀逸だったと思います。木箱数個使って椅子代わり&T字路示すだけ、とかでも芝居自体は成立するし、実際にそれで済ませてしまう団体の方が多いだろうからね。これが出来たのは、伊藤をはじめ、実際に製作を主導する大道具小道具チームとか、文句もいわずに製作してくれる各劇団員の力だと思います。

衣装。今回はわりと現実路線の衣装なので、デザインを起こしてもらいながらも、実際にはそれにあったものを探したりが中心でした。その中で、『ナイフ投げ師~』のマルグリットのドレスについてはかなり細かくオーダーさせてもらってます。上品にみえつつ、ジャケットを脱ぐと意外に露出が多い感じってことで。なんというかもう、完璧な出来でした。で、他の人はそこから逆算して、肌の露出を極力抑えてもらう方向。『通行のルール』はガードマンの衣装を松本の会社が協力してくれまして(話がそれますが、通行止め看板は市川建設さんがご協力くださいました。)、他は手持ちのとかから探した感じ。ウチの芝居でジーンズが舞台上にあがったの、初めてじゃないかな。どちらも予算的制約が多い中、いい感じにまとめてくれたと思います。

音楽。『ナイフ投げ師~』を基本ジャズ、『通行~』をブリティッシュ系のロックで、というオーダーをさせてもらってます。今回はたばるがかなりがんばってくれまして、ほとんど彼女の選曲だったんじゃないかな。うまくまとめてくれたと思います。ただ、どうしても曲が決まるのがぎりぎりになってしまうんで、打ち合わせの仕方とか、普段の稽古での試し方とか、その辺のフローをもうちょっと確立させていかないといけないですね。

音響と照明。実際のオペレーションは、音響が僕と関、照明を高岸と加藤が担当したんですが、やっぱりオペレータも役者の演技に合わせてリアルタイムで演技しなくちゃならないので、その辺の練習をもっとやれるとよかったですね。まあ、演技の空気感が出来上がってくるのが本番直前だったりするので、それ見て音や明かり決めて、かつそれによって変化した演技の空気も踏まえつつ、本番までに慣れる、というのは、現実的には非常に難しいことだと思うんです。そもそもその道のプロでもないので、年に数回しかオペレーションの機会がないですし。どうにかしたいとは思いながら、なかなか善処できてないですね。

制作や広報周辺。公演の企画の具体化から、宣伝なんかに関して今回はかなり制作チーム主導で動いてもらいました。webでの企画等けっこうがんばってくれまして、結果的に新規のお客さんを多く呼べた感じがあります。今後メンバーの入れ替えなんかもあるんで、また体制作っていかないといけないんですが、今後もなるべくこういった方向で動けるといいなと思ってます。

しかしまあ、スタッフワークに関してはアレですね、みんな非常によくやってくれてるなと思います。うちは時々、そういうことが出来る人が集まった、みたいな言われ方するんですが、なにいってんだと。入団時からまともに出来た人なんて誰もいないんですよ。興味があろうがなかろうが、みんなかならずなにかのポジションを受け持って、勉強したり試行錯誤して徐々にスキルを上げてくれてるだけなんです。それぞれ、相当努力してくれてますから。ホント頭が下がります。僕が足引っ張ったりしないように、負けずに努力あるのみです。